本社はわかってくれない : 翻訳編

外資系に勤めていると、一定の頻度で発生する作業が英語から日本語への翻訳です。本社がコストなどを理由に、独自にアメリカ国内で業者を選定する場合、トラブルになることはほぼ決定です。海外の翻訳会社に勤めている日本人は、全員ではないでしょうが、母国を離れて20年も経っていたり2世だったりすることが多いです。言葉は時代とともに変わりますし、また母国を遠く離れると知らない間に古い言い回しを使っていたり、気の利いたフレーズが思い浮かばなかったりするのは自然なことです。

ある時、本社主導で「倫理規定」をグローバルに導入することになりました。基本的に規則の翻訳なので、ビジネスライクにその通り翻訳すれば良いはずです。業者の選択を本社が行ったと聞いた途端に、これまでの苦い経験を思い出して嫌な予感がしましたが、とりあえず仕上がるのを待っていました。

翻訳が出来上がりファイルが送られてきたので、英語が得意な部下にチェックを頼みました。10分ぐらいして「美加子さん、ちょっとよろしいですか? 日本語がかなりおかしいのですがどうしましょう?」と言われた時は、「またか」と思いました。

翻訳された日本語を読み始めた私は、思わず声を出して笑ってしまいました。お堅い倫理規定の文章が、まるでポエムのようになっているのはなぜでしょう? オリジナルの英文を持ってきてもらったところ、もともと倫理規定の割には柔らかく書いた文章を、翻訳したアメリカ在住の日本人が意訳した結果、出来上がった文章はビジネスライクでなくなり、誤訳もところどころある代物になってしまったということのようです。

どうしよう。この文章にまさか注釈をつけて、「アメリカ本社が翻訳した文章です」と言うわけにはいきません。グローバルな人事チームとして、本社のメンツを潰すわけにはいきません。ただこの文章を自分の名前で配布するのは、さすがに勘弁してほしいというのが本音です。

非常に忙しい時期だったので本当に申し訳なかったのですが、部署内で翻訳をし直すことにしました。手直しをすることも考えましたが、7割おかしい日本語を正しく直すほうが大変と判断し、5名に下訳を頼み、最後のプルーフリーディングを私ともう1人で行うことにしました。

同時に私は、このプロジェクトに携わる人たちに、トータル何時間かかったのかを記録しておいてくれるように頼みました。人事部付き経理の人には、プロジェクトに関わる7人の時給の計算をしてもらいました。何のためかわかりますか?  このプロジェクトのやり直しにかかった人件費をUSドル換算して、本社にこの業者に1ドルも払うべきではないと助言することと、次回翻訳作業が発生するときは、必ず日本法人に業者の選定をさせてもらうよう上手に約束してもらうためです。

この話には実はおまけがあります。憤懣やるかたなかった私は、仲が良かったGreater China(中国・香港・台湾)の人事責任者・Yimingに電話しました。愚痴を聞いて欲しかったのですが、私が口火を切る前に、Yimingが切り出しました。「ミッキー、聞いてくれ。あの倫理規定の翻訳は悪夢だ」 先を越されてしまった私は、何がどうしたのかを聞きました。事態は日本より深刻です。本社は台湾出身だけれど多分30年は台湾を離れているだろう台湾人に、翻訳を依頼したと思われるそうです。翻訳のレベルそのものは素晴らしい。ただ台湾の旧字体で、つまりは画数の多い漢字で翻訳されているため、中国本土の簡略文字で育った若い世代の社員が全く読めないと言う事態が発生しているとのこと。中国本土にいる台湾出身の年配の方で、簡略文字も使いこなせる人というレアな人材を探し回っているとのことでした。「全く本社はわかっていない! 中国人は全員同じじゃない!!」気炎を上げている彼に比べたら、日本は部署内で何とかできるのですから大したことないように思え、私は自分の事は話しませんでした。

外資系に勤めている人は「外資の本社は全くわかっていない」と思うことが多々あり、日本企業に勤めていて海外に駐在している人たちも「日本本社は全く現地のことをわかっていない」とストレスに感じる事が多々あるはずです。まさに本社はわかってくれませんよね。

会社員と言う立場を離れた私があえて俯瞰をすると、それぞれの立場が違うと言うことなのだと思います。本社は一海外法人がどうしたこうしたを越えて、グローバルに同じものを展開したいわけです。現地法人に勤めている社員は本社と現地の間に挟まれ、本社の立場はなんとなくわかるものの、現地法人の社員の気持ちに寄り添いがちになりストレスを抱えます。

もしかしたら永遠のテーマで、本社がわかってくれる時は来ないかもしれません。その中であなたがどう割り切るか、どう立ち回るかの問題です。今、「本社はわかってくれない」「全く本社は!」と思う案件を抱えている方は、どこも同じなんだという共感とともに少しだけ冷静になれますように。

まだまだ残暑厳しい折、皆様どうぞお元気でお過ごし下さい。